昭和五十一年一月十四日 朝の御理解
御理解 第七十一節 ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ 。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者 や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る ことはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。
信心の稽古という事は、私はやはり信心の勉強ということだと思うですね。しっかりやっぱり勉強がいります。よそから見えた方達が合楽に来てびっくりされるのが、皆が教典とノートを持って朝の御理解、これは朝の御理解に限らんのですけど、いろんな会合の時にはいうなら勉強道具を持ってみえる、という事これは皆が感心されます。
ですからそれを書き留めて行くという事ではなくて、それをまた一つ予習復習とでも言いますか、それを本当のところをどの様にどう頂いておるかという事を確かめて見なければいけません。 そういう意味で私は最近、ここの修行生の方達が今、十五、六名おりますが、三十分間ではありますけれども朝頂いた御理解、朝書き留めておった御理解、自分が今日の御理解のどこを頂いておったかという事を一人一人発表し合いましてね、そしてそれにまた私がまた肝心なところを付け加えたり、私自身もやはり新たな発見をしたり私自身勉強さして頂くんですけども、もう本当に上達していくとが目に見える様です。その頂きどころが的確に頂く様になりましたです。やっぱり勉強だなと思います。
ですからもちろん勉強するからには今、合楽での一つの動きというか動向というものをまずわからしてもろうて、そしてそこのところをいうならば研修していくと。もちろんそれが行の上にも表される、おかげの上にも表れる。まあ例えば今、大祓信行にもう合楽全体の人にそれが呼びかけられて、まあだそれを実行していない人もあろうけれども、実行している人の場合なんかもう生き生きとした体験が生まれておるということです。本当に神様が躍動してござるという感じです。それはね、ただおかげを受けるということにおいてはですね、例えば昨日一昨日でしたが、北野の福島さんという方が以前は非常に熱心に参って来ておりましたがこの頃さっぱり参って来ません。久しぶりであちらのお母さんが参ってまいりましてから、ご無礼ばっかりしておりますが息子達が福岡のあちらの方で小さい建設会社を始めております。正月に帰って来て、「お母さん合楽には参ってくれよるじゃろう」とこう言った。「うんにゃそれが、あんたもうご無礼ばっかりしておるたい。」「そら、私どんこげんしておかげを頂きよるけん。時々には参ってもらわにゃでけん」と、今日息子に言われてから参って来ましたと、こう言うわけです。ですから息子がおるわけですから、一言息子に対する御理解を頂かして下さいというのです。
そしたら、あの頂きますとが、折りだしナイフですね、小さい鉛筆削りの、昔使っておったあのナイフをちょっとこのくらいばっかい開いておるところを頂きましてね。『切れとらなかったのがおかげ』と頂きました。私は合楽にお願いをしていただきよると、もうそれだけで親は参りよらんばってん、思いよるとそれが切れとらなかった。だからおかげだけは頂きよるということなんだ。だから、結局切れとらなかった、ただそれこそ年に何回しか参って来んであっても心の中に合楽の金光様のおかげでという様なものを思うたり感じたり、また親に「参ってくれ」と言う様なそれだけでねおかげを受けるという事です。ですからやはり、おかげを受けるというだけならばね、<しょっちゅう>朝参りをして来ていうなら、そげん稽古に打ち込まんでんいいわけですけれども。私は信心に、お道の信心のこうして打ち込むということはやはり稽古に打ち込むことだと思うんですよ。いわゆる勉強に打ち込むことだと思うんです。私はあの、今朝方こういう御夢を頂いた、『ちょうど波止場の様な海ですもん。そこへ、男と女が心中する寸前。それがその男と女だけれども二人が一緒に心中しよるとじゃないですもん。一人一人が相手はおらんですけども、とにかく男と女が心中したと言よるのです誰かが。そしてそれを合楽の方が、誰かはわかりませんけど、合楽の御信者さんが二人でその助けておる。私がそれを横から見ておって戸板に乗せてしかも動きのとれんごとグルグルその綱で体を巻いて戸板に乗せて、とにかく早う教会さん連れてけとまあ言うておるところでした。』
一つはその後に頂いたのはちょうど、『大きな華やかなお寺さんの前に広場がある。その広場でまあ二十五、六の青年の人達が不良といった感じじゃないです。真面目な感じの人達がこの位の棒を手に手に持ってもういうなら叩き合いをしておるところです。もうけれども本当に叩き合いですからねもう構えでも何でもしら真剣です。それでもう真剣ないうならば争いをやっとるわけです。すきがあったらもうこうやってこん棒で叩かれると。こっちもまたすぐ向かって向こうを叩こうといった様な場面』を頂いてまあ思わせて頂いたんですけど、心中という事はどういう事かというと、もう本当に好きなこと好きなもの、もうこの頃神様と心中するごたるというわけです。世の中にはその位信心が好きな人がたくさんあるわけです。
同じならお道の信心者の中にでもです。もう求めて求めてやまないものが与えられんでおる人達がどのくらいあるかわからない。もう本気で真の信心がわかりたい、真の信心がわかりたいと言いながらわからんでおる人がたくさんあるわけです。
ははあ、二人が心中するのではなくてから男と女がという様な事が、この人達は二人ながら神様と心中するくらいに、心中したっちゃよかくらいに思い込みで信心の稽古をしとるけれども与えられんでおる嘆きというかわからない。いうならば悩みを持っておる人達を合楽の人達がお導きをしてそして連れて来て信心を教えよう、稽古させようという事だなと思いました。
私は先日から創価学会の池田大作という会長さんが書いた、「人間革命」という本を昨日二冊読み終わらして頂いたんですけれども、まだたくさんあるそうです。けども私は幹三郎が買って来とりましたから、もうこりゃ三巻、四巻というて読む本じゃないけれどもまあいろいろ参考にならして頂いた。その中に書いてありますことの中にですね、そういう本を読んでおったからでしょう。そのお寺さん前で若い者が闘争をやっておるところですね、叩き合いをやってるということはどういうことかというと。昔日蓮宗では、折伏ということを申しますね。これは戦いだそうです。もう日蓮上人様がそうだったそうです。もう他の宗教は絶対もう邪教だと決めつけてしまわれて、それでは日本がつぶれる。邪教がはびこったんじゃあ。もう一番正しいのは日蓮宗だけだと。しかも今の創価学会が言っておられるのは、たくさんの法華経が日蓮宗はあるけれども、創価学会だけが本当で他はもう邪教だと、こう決めつけておられます。その代わりにもう教典の勉強という事はもう徹底して勉強する。それはもう本当に私もその知っておりますけれどもちいと馬鹿んごたっとがその創価学会に入ってからもうそりゃあむつかしい言葉を使っていわゆるその勉強しとるわけです。その勉強した、かじった事を人に話すわけです。そしてどういうお寺さん、その当時はお寺さんですけど、お寺さんに団体で押しかけて行って、折伏したら、折伏してその論争に負けたらですね、そのお寺も日蓮宗になってしまわんならん、という掟があったそうですね、当時。それは実際、創価学会の方達がいくらものいわばお寺さんをですねやっぱり折伏しておられるというのもあるという話を聞きました。
そういう私は話を読ませて頂いて、今の合楽でのいわば日々の御理解を勉強して、もう創価学会どん勝つことじゃなか。もう教団の中でもですそれこそ神様と心中してもよかというほどしに好きな信心を勉強が出来ずにそれを与えてくれる先生がおらんので、いうならば悩んで一生終わって行くという人がどの位あるかわからん。こらいっちょ、合楽の方達が本気で稽古してもろうて、それこそ創価学会じゃないけれども一つどんどん折伏に行って行かなければならないという様なことを今朝の夢の中から思いました。そりゃもうお互いにこん棒持ってるから、負きゅうごとないからやっぱり戦うわけです。だからもう真剣です。いうならば真剣に勉強して、<真剣>に金光教の信心をこの様にも素晴らしいという事をです。私は最近ここ四、五日の御理解を頂くだけでもそれを思うです。しかもそんならその時代、時代の信心の一つのまあ過程というものを二十数年間のあの時代はああだった、あの時代にはこうだったという信心をです。信心のいうならば薄い人にでも信心のいよいよ手厚い人にでも、今の合楽で頂いておる御理解をもっていうならば折伏に回るならばね、問題はこちらに勢いさえあるならばね折伏がでけるです。創価学会でも折伏出来るです。いうならば無限の深さを持って、釈迦の教典のいわゆる法華経を日蓮が勉強しておるというのは、ただそれだけのことでいうならば釈迦の世界というよりも日蓮の世界です。そしていわば、宗教哲学というですか、仏教哲学という、なるほど深いけれども宗教そのものの眼目というのは、人間氏子が幸せになるという事が眼目ですから。その幸せになっていけれるという手立てを、今の合楽くらい素晴らしく、いうならば説き明かしておる。いうならば深い広いです。
例えば昨日は十三日会でした。昨日は八十数名の人が集まっておりました。もう一人一人がいうなら二、三分づつ発表致しました。私が最後に締めくくらせて頂いたんですけども、もういよいよ今年こそは神様の心を心として、天地日月の心になることが肝要だと。私は今度は福引で、土の心と頂いたからもういよいよこの土の心で一切を黙って有り難く頂いて行くということに定めた。ある人はいよいよ自分が無力であるということをわからして頂いて今年こそ神様にお縋りしぬいてのおかげを頂きたい、とまあ今年の抱負を皆さん語られたわけです。それで私がこんなことを申しました。皆さんのお話を一人一人聞かせて頂いておって今年こそはこうしよう、ああしようじゃなくてもっと、今年はこのことに極まった、もうこれに取り組んでおりますというお話じゃなきゃつまらんと私が申しました。文男先生がとても素晴らしいお話を致しました。
先日、福岡の共励会の時に麻生さんが、合楽で最近、活力とか活力源とか活力素ということを言われる。あれはどういう意味ですかというて聞かれたから私はかく答えたという話をしてました。だからお互い日々です起きてくる様々な問題をです、信心の成長する糧として頂いていくということだよ、すべてを。そこに信心の心に活力が出来てくる。いうならば難儀そのものが活力素だと説いた、という話をしてました。だから今までの話であったら素晴らしいです。ところがもうそげな話じゃ合楽ではもう流行らんと私が申しました。もうそげな話なら誰でん知っとると言うのです。もう神様がそういう信心はもう腹いっぱい頂いてござると、ね。そりゃ素晴らしいことです、天地日月の心になる事でも地の心で受けて行こうという事でも難儀がそのまま活力素になるということは、けれども今の合楽ではです、神様に活力素を送るという信心なんだと。そしてもう既にそれに取り組んでいるのだと、いうならば神様から信じられる、神様を信じるという信心から神様に信じられる。宅の神様がイキイキと躍動し始めなさる。ためには神様に今まで頂いて頂きよったものではなくて少しは珍しいおいしい物を差し上げる。それを今、合楽では時日をきって、または家族中がです、夫婦同盟親子同盟を結んで、東京・大阪・名古屋辺におる、なら子供達にでもそのことを言うて、お母さんは夜の何時から御祈念をするからあんたも何時から御祈念をして下さい。そすと、はあ今頃お母さんが御神前に座って御祈念をしよる自分も御祈念をしよる。そこに親子の交流がないはずはない。と、徹底して行こうという行き方そういう動向の中にお互い合楽の信心信奉者はあるのだ。そういう素晴らしいいうなら神様が舌鼓を打ちなさる様なこれはおごちそうだ。なぜかというと今までは拝むことはお願いをすることでありお礼をすることであり、お詫びをすることであった。これも大事だと、これを抜きにするわけにはいけん。けれども大祓信行だけはもう何にもない。ただ無条件いうならその無条件の心こそ真心だと。その真心を神様に頂いて頂くんだから神様がそれこそ舌鼓を打って喜びなさるだろうと。栄養失調になりござった神様がイキイキとしてみえるだろう。今の合楽はここなんだ。
皆さんの皆の話を聞かせて頂いたけれどもね、今年の信心やる気十分、やろうと思うとります。今年はこれでいこうと思うとりますじゃでけんと私が昨日申しました。もうそういう修行、なら成り行きを大事に、もうそげんとは身についてしもうとらんならん筈だから。もうそげんとじゃ皆がわかりきっとることじゃから。まあ、今頃どん「成り行きを大切にする」て言うてから、今頃どん天地日月の心になること肝要てなんてん言うてから、今頃そげなこと言うてん入らん。もう神様腹いっぱい食べてござるそげんとは。という様なお話をさしてもろうたことでした。
どうでしょうか皆さんも。しかもです最近この寒修行が始まって以来の御理解をです、教学的に皆さんが系統立ててノートされたらです、もうそれこそ金光大神の信心の深さ広さにただただ驚くばかりであると同時にです。おかげの頂ける、徳の受けられる手掛かりがもうはっきり出ておるということです。これをもってです、いうならば世の中に信心好きな人がある、それこそ神様と心中しようごと好きであり信心がわかりたい、真の信心とは真の信心とはというておるような人達にです。例えば先日からの実意を持ってなんなりとも願えとおっしゃるあの御理解なんかもとてもとてもそりゃもう本当にびっくりするごと深いです。金光教全体がです、あーって例えば声をあげていうくらいに素晴らしいですあの御理解は。
信心がわかった、信心が程度が進んだ、昨日福岡の松岡さんが言っておられました。一生一代のうどん屋さんが今度四階建ての家を建てることになった。本当いうたらお金もないしまあだ、そげな段じゃないけど親先生のお取次ぎを頂とるからいっちょん心配なりません。本当に有り難いことですという発表をされた。だから今までの信心なら素晴らしかの、それだけの確信をもって体験ちゃ有り難い。そういう事を思い立っておるのに心配がないちゃなんて有り難いこと。というのが最高の信心でがです。金光教の信心の最高はそこです皆。だから願うとか頼むとかはむしろ低級なごと言うです。なるほど、それは昨日福島さんじゃないが願いのある時だけ参って来るという、これは頼み信心。けどもいよいよ自分の無力さ加減というものがわかった時に縋らなければおられないという心の状態はもう四六時中なのです。実意を以て願うということはそういうことなんだという様な、まあ実意という事のあらゆる角度からの説明となるほど牛馬のことに至まで願わしてもらわなければおられないというほどしの信心を頂いた時に金光様のご信心を本当に頂いたという本当の信者ということがいえるんだという様な御理解でしたよね。もうこの事なんかも少し教学的に説きますならばです。そりゃまあ素晴らしい教学なんです。そういう信心をお互いに身につけて行こうということですから、いうならばそのことが深く広く勉強しなければわかることじゃない。今朝の御理解どげな御理解じゃったの?って帰ってから言うごたるこっじゃ、もう何もなっとらんじゃないか。聞いた時だけ、はあなるほどと思っただけじゃ。三十分でよいから後から研修してごらんなさい。はあ、今日の御理解は素晴らしい、そしてここんとこだけはと。
だから私はうちの修行生の方達にもです、ただ簡単に今日の御理解で頂きどころはここだと、大意的なところだけをまとめておる人がありますから、そげなことじゃ役に立たん。いうならば文段的なところもずーっとせなければ、あなた方が例えばあなた方がお取次ぎをさせて頂く時に、はあこういう素晴らしい表現法があったんだという事をです。あなた方が体験してこの御理解を引用していかなければならん。いうならば人に話を伝えていく時に役に立たん。
今日私はお夢を頂いてです。それこそ合楽もですね、まあ創価学会では折伏というでしょうがです。合楽にもなんかそういう折伏といった様な意味のことが、いうならば合楽示表活動に参画するということはです、そういう創価学会の方達が相手をもう打ち負けにゃおかんという一つの迫力を以てです。こん棒で戦いおうておる位の真剣さを以てです。油断すりゃ叩かれるんだと、言い方を間違えたら金光教の信心が駄目になる言い方を本当に説いたらもうそれこそ何宗、何様でも今の金光教の信心にはかなわんというほどしのものを今合楽で聞いて頂いているです。
ですからいよいよです。大祓信行によっていわば神様と交流する。自分の信心もイキイキとしてくる。神様もまたイキイキとして下さる。神様が示現なさらなければおられない働きがそこにもう出来て来よる。そこで私共がそのイキイキとしたです。信心を以て、世の中には本当に神様と心中したっちゃよか、本当の信心を教えてもらうならといった様な人達がたくさんあるから、そういう人達を助けていくことのためにもです。いよいよ合楽示表活動に本格的な活動を始めなければならんという事でございます。
今日の七十一節は、初めにここには信心の稽古をしに来る所と教えられ、最後にもまめな時ここに参って信心の稽古をしておけと結んでおられます。だから信心の稽古は朝晩参りよりますというのではなくて勉強です。一つ本気で勉強してです。例えば家で信心のない家族の者にもです。今合楽で私が言っておる様な話を例えばしてごらんなさい、耳傾けますよ必ず。そしてやはり家の家族中の信心のない者を折伏しなければいかんです。隣近所、親戚中もう本気でね、こん棒で叩き合うあの真剣さを以てです。いうならば合楽示表活動に参画さしてもろうて、和賀心時代をいよいよ広めていく御用にお使いまわしを頂きたいと思うのでございます。どうぞ。